ブラックホール東京でのカルチャーショック

上京 思い出

55年前の東京オリンピックの時代の影

新型コロナウイルスの感染拡大で1年延期になった2020年の東京オリンピック。今から55年前に開催された最初の東京オリンピックの時代も、その光の裏には多くの影がありました。東京オリンピックがそれ以降の高度経済成長の起爆剤になったのは確かですが、そのための新幹線や高速道路の建設には、全国各地の多くの若者や男たちが大量の汗を流して耐え忍んだきつい労働が不可欠でした。

地方の中高卒の若者が集団で上京した集団就職が始まったのは1954年。その10年後の東京オリンピックの年(1964年)には、35道県から8万人近くもの若者が東京をめざし、集団就職の専用列車はのべ3000本にも上りました(この集団就職は労働省が廃止を決めた1977年まで続いた)。

ちなみに、東京の人口は終戦の1945年(昭和20年)には約350万人にすぎなかったが、10年後の1955年には800万人を超え、東京オリンピックの翌年(1965年)には約1100万人に達しました(現在は1400万人)。いかに多くの若者が東京にあこがれて殺到したことか。なにをいう私もそのひとりであり、1年浪人して大学受験した年(1969年)には、東京大学が入学試験を中止するという前代未聞のハプニングがありました。

東京で初めてのひとり暮らし

私は高校時代には部活(その当時はクラブ活動と呼んでいた)のバレーボールに明け暮れ、普通高校に在籍していたとはいえ、勉強は二の次でした(それでも英語の成績は少しよかった)。そうした状況ゆえに、東京の現役の私立大学入試は全滅。ほかの多くの同級生と同じく、東京の予備校に通うために1968年3月に上京しました。そして最初にやったことは、食事付きの下宿屋を探すための不動産屋巡り。

御茶ノ水駅前の無名の小さな予備校に行くことになっていたので、地下鉄丸ノ内線の池袋方面駅の不動産屋を巡っていました。その結果、茗荷谷駅から徒歩10分ほどの拓殖大学近くの下宿屋にお世話になることにしました。

その下宿屋は何十段ものコンクリートの階段を上った高い丘のところにあり、下宿人は予備校生や大学生など30人近く(すべて男)。なぜそこに決めたのかといえば、三畳一間の部屋とはいえ、1ヵ月の下宿代は朝夕2食付きで8000円(今考えても安い)。これが決め手となりました。わずかな荷物を持ち込んで、生まれて初めての下宿生活をスタートしましたが、そこで味わったのはカルチャーショックの連続でした。

トンカツでも大のごちそう

まずは朝食ですが、ご飯・みそ汁と大きな皿の漬物、そしておかずはメザシか卵焼きのどちらか。卵焼きはいいとしても、冷たいメザシのご飯はとても、でしたね(下宿人が多いので、次々と焼くメザシが冷たくなるのは仕方がなかったと思う)。

夕食はカレーなど地味メシが多かったのですが、月に数回のトンカツはごちそうでした。大きな皿に盛られた千切りキャベツの上に乗っかったアツアツのトンカツ。それを包丁で小さく切り、ソースをかけて食べたときはハッピーでした。

カルチャーショックを受けた人たち

下宿人はほとんどが予備校生と大学生でしたが(少数の大学院生もいた)、今思うとスゴイ人がたくさんいましたね。夕食のあとはしばしの休息となりますが、そのとき突然何語か分からない歌がよく下宿中に響いたものです。歌っていたのは東京教育大(今の筑波大の前身)の大学院生で、あとでほかの人に聞いたところ、彼が歌っていたのはロシア語の歌だったそうです。こんな人は私の田舎にはまったくいないので、まずは最初のカルチャーショック。ちなみに、彼は下宿のおばさんととても仲がよく、一緒に話しながらよくご飯をおかわりしていました。

ところで、私は大阪出身で弁護士をめざしていた中央大4年生のシミズさんという人には、ずいぶんとかわいがってもらいました。あるとき、思わず「シミズ君、司法試験はいつですか」と尋ねたところ、隣にいた早稲田大・政経学部1年生のMさんにピシャリとこう言われました。「おまえねー、シミズさんをシミズ君と呼ぶのは百年早いぞ」。

生まれ故郷の会津のK市では、先輩でもみんな「~君」と呼んでいたので、これもカルチャーショックでした。中学のときに一緒に遊んだ近所の2歳年下の知人には、今でも「S君」と呼ばれています。

そのMさんは大酒のみで、ある晩のこと。飲みに行った帰りに下宿屋近くの駐車場に止めてあった乗用車に次々と消火器の泡を吹きかけるというバカないたずらを。そして近くを巡回していたパトカーに捕まり、警察署のブタ箱(留置場)に数日お世話になるという貴重な経験をしたのでした(大家さんが身元引受人になり、ようやく釈放された)。

次回へ続く

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