転職から学ぶ将来の働き方

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日本でも一般化してきた転職

「転職」とは単純に職業を変えることをいうが、転職する理由は千差万別であり、転職者の心にはいろいろな思いが渦巻いている。2020年に発表された大学新卒者(2017年卒)の3年以内の離職率は32.8%、高校新卒者の同離職率は39.5%である。それなりの希望を抱いてやっと職を得ても、それから3年もたたないうちに3人に1人がその会社を去っていく。

転職の理由について、国内最大級の転職サイトである「エン転職」が2018年2~3月に実施した8000人以上のアンケート調査によれば、次のようなものである。「給与が低い」(39%)、「やりがい・達成感を感じない」(36%)、「企業の将来性に疑問を感じた」(35%)を筆頭に、本当に多様な転職理由が挙げられている。

現在の日本において、終身雇用といえるような働き方は従業員1000人以上の大企業の男性社員に限られ、全労働人口に占めるその比率はわずか8.8%にすぎない。また、システムの開発・保守などに携わるITエンジニアについて見ると、転職希望者はなんと2人に1人に上り、その第一の理由は「給与に対する不満」(48%)である。以上が転職に関する今の日本の現状であるが、以下では筆者の転職の経験とそこから学んだ将来の働き方などについて述べていきたい。

最初の転職先は地元のガス会社

30歳で東京のJ通信社を辞め、故郷である会津のK市に戻り、最初に就いたのは隣のW市のガス会社であった。いわばUターン後の初の転職先である。この会社を紹介してくれたのはJ通信社のときの上司で、転職先も決めずに田舎に帰るのはあまりにも無謀だと、いろいろな人に問い合わせて見つけてくれたものである。

3月に帰郷し、翌4月から勤め始めたのであるが、実際には精神的にも肉体的にもかなり大変だった。10年以上も東京で生活していれば、やはり東京の文化が骨の髄(ずい)まで染み込んでしまうものなのか。まずは田舎の生活に慣れるのが一苦労だったのに加え、転職先のガス会社とJ通信社との文化があまりにも違いすぎた。「企業文化」というコトバは知ってはいたが、それを心身で感じるのは初めてであった。

東京のJ通信社は業種がマスメディアということもあり、社風はかなり自由だった。始業時間までに出社し、終業時間まで仕事をすれば、あとは完全に自由である。ところがこの新会社では新入社員(中途採用の筆者を含めて20人ぐらいだったと思う)は始業30分前に出社し、職場を掃除して先輩社員を迎える。

それでもこれはまだ我慢できたが、もっとイヤだったのは終業後の数時間の勉強会だった。そんなに早くない終業時間のあとに、さらに数時間も拘束されるのは自らの許容範囲を超えており、ほとんど参加せずに帰宅した。

一方、以前のJ通信社では社員はすべて大卒だったが、地元のこのガス会社では社員の多くが高卒である。そのため、大卒で東京で記者をしてきた筆者はいわば完全に目障りなヨソ者であった。そのことは先輩社員たちの私に対する態度にはっきりと表れていたが、そんな人たちはすべて無視していた。しかし、数は少なかったが、ざっくばらんに接してくれた人もいたので、それには素直にうれしかった。

仕事の内容もさることながら、それ以外のいろいろな人間関係も含めたものが企業文化といわれるものなのだろう。結果的にあまりにも次元が違う企業文化になじめるはずはなく、わずか6ヵ月でその会社を辞めたときは心からホッとしたものである。

ちなみに、そのガス会社は都市ガスの供給が主力事業であり、地元でも名門といわれるほどの優良企業であったが、設立後40年ほどで事業清算に追い込まれた。いわば会津の白虎隊と武士道の精神を観光事業として残そうと多額のお金を投入したためで、残念なことに創業社長のそうした思いは実現しなかった。

次の転職先は生命保険の外交員

次の転職先はなんと嫌われ仕事ではトップクラスの生命保険の外交員である。なぜそんな仕事を選んだのかといえば、夜の学習塾の仕事はすでに始めていたが(これについては前回の記事で詳述した)、昼の時間が完全に空いてしまうので昼だけできる仕事を探していたからだ。

もっとも、そうした理由もあったが、最大の理由は未経験の営業の仕事とはどんなものなのか、実際に経験してみようと思ったことである。というのは、東京のJ通信社に勤めていたとき、先輩からよく「お前は絶対に営業の仕事はできないな」と言われていたからだ。本当にそうなのか、自分で実際に確認したかったのである。そんなとき、たまたまM生命保険の人が用事でわが家に来たとき、保険外交員をやってみないかといわれたので、その誘いに乗ったというわけである。

生命保険の外交員の多くは女性で「生保レディ」と呼ばれているが、少数派の男性は「生保マン」とでもいうのかそれは分からないが、そんな名前で呼ばれたことは一度もなかった。教科書的にいうと、生保外交員の仕事は生命保険の募集、集金、アフターサービスである。「保障」という目に見えない商品である生命保険の仕事の流れは、お客のライフサイクルに応じて必要な保険金額の見積もり→いろいろな事項を確認しながらの申込書の作成→お客の署名・捺印による契約-となる。

しかし、これはあくまでも一般論であり、実質的な仕事は生命保険の募集、俗にいう「保険取り」である。というのも、生保外交員の給与はほとんど生保契約の件数で決まるからである。基本給の部分は給与全体の20~30%で、残りはすべて歩合給であり、それはボーナスにも反映される。そしてどのような経歴を持つ新人でも基本的な研修を受け、簡単な生保営業の資格試験をクリアすれば、即「いざ出陣」となる。

結果が出ない飛び込み営業

上司からなんの営業指導もなく、いきなり戦場に放り出されるのであるが、それでも1日に何十件という飛び込み営業を自分に課し、毎日実行した。それでも話を聞いてくれる人は数えるほどしかおらず、ある家のジイさんからは「もう二度と来るな!」と塩をまかれたこともあった。これほど努力してもあまり成果が出ないので、こうしたやり方のどこに問題があるのかを考えながら、成績上位者の営業法を観察することにした。そこから見えてきたのは、次のようなことだった。

それらの人たち(主に女性)はずっと地元で暮らし、かなり濃密な人間関係の地盤を持っており、ある人から契約をもらうとその人から別の親しい人を紹介してもらう。これを繰り返すことで、毎月コンスタントに契約を取っているようだった。私のように飛び込み営業などをしている人は誰もいなかった。

こうした現実は分かったが、はたして自分はそのようなやり方をまねることができるだろうか。東京からのヨソ者である筆者には濃密な人間関係の地盤はないし、親せきや昔の同級生などを回るのもイヤだった。そこで学校の教職員などを回り、旧保険の積立金を下取り価格として新しい保険に乗り換える「転換」などでなんとか糊口(ここう)をしのいでいた。しかし、こうした低空飛行も2年ほどが限度であり、隣のW市の予備校で時間給の英語教師の仕事を得たことから、生保業界からもなんとか足を洗うことができた。

転職から学んだ将来の働き方

このような転職の経験から分かったことは、自分は田舎で(おそらくは東京でも)会社勤めはできない、つまり人に使われたくはないのだろうということだった。これらの転職の経験は決して楽しいものではなく、それどころかイヤな思い出ではあるが、今になってみるとその後の働き方を含む人生にとってそれなりの意味があるものだったのかもしれない。そうしたことが分かるのはあることを経験してから何十年後かもしれないが、どのような経験でも無駄なものはないとも思えてくる。

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