国際労働機関(ILO)や労働問題の文書・資料の翻訳へ

translation-of-ILO's-documents 仕事・ビジネス

旧労働省の翻訳の仕事

M社の実務翻訳のあとにメインとなったのは、J通信社のときの上司を通じてつながったG社からの旧労働省の翻訳の仕事だった(労働省は2001年に厚生省と統合して厚生労働省となった)。具体的には、国際労働機関(ILO)が制定した国際労働条約と勧告に関する各種の文書をはじめ、そのほか労働省の管轄である労働問題のさまざまな資料の翻訳である。

G社から依頼される労働省のこうした翻訳の仕事は、M社の実務翻訳と並行して1989年から始めた。当時は労働省もこのような重要なILOの条約・勧告などの文書の翻訳を、民間会社に委託していたのである。

それらの公的なILOの文書・資料の英文は、民間の実務翻訳の英文と比べてかなり素直で読みやすく、仕事もかなりはかどった。考えてみれば、国際機関の文書は英語がネイティブでない人でも理解できるものでなければならないからだ。

また、原稿料もM社の実務翻訳よりは安くなったものの、仕事のボリュームがとても多かったので、収入は実務翻訳よりもよかった。

翻訳会社のAさんの好意

こうしたよい条件を提示してくれたのは、やはりG社のAさん(社長)である。私をG社に紹介してくれたのはJ通信時代の元上司で、彼はG社の翻訳の依頼先としてAさんとは懇意にしていた。そうした人の紹介なので、やはりAさんとしても私に対してはあまり厳しい条件は提示できなかったと思う。

G社はAさんとアルバイトの女子事務員の2人世帯で、労働省の翻訳だけを扱ういわば彼の個人商店だった(それでも資本金1000万円の株式会社)。G社の翻訳の依頼先はJ通信社の海外部署の記者たちで、私も彼らと同じ条件でその仲間入りをしたというわけだ。

Aさんはシングルで話好きの人情家であり、電話で話し始めると最低でも30分は続く。G社の仕事を請け負って数年後に上京したとき、Aさんは私を新橋のフグ料理屋に連れていってくれた。

そこで初めて分かったのはAさんはかなりの大酒飲みで、料理にはほとんど手を付けず、ビールだけを4~5本も飲んでいた(当時飲食店で出されたビールは633mlの大瓶)。

宝くじが当たったらみなさんにボーナスを

そして話はますます盛り上がり、ついに宝くじの話に。実は彼にとって宝くじは生きがいともいえる楽しみで、給料のかなりの額を宝くじに突っ込んでいた。そしてこんな話をするのだった。

「宝くじで1000万円当たったら、盛々男さんたち翻訳者のみなさんにはそれなりのボーナスを出しますよ。私がこうして生活できるのは、翻訳者のみなさんのおかげですから」

これには私もホロリとしましたね。「Aさんのためにも、これからも頑張って仕事をするぞ」と改めて心に誓ったものだ。

ところで、G社の英文の原稿は宅配便でわが家に送付され、数週間から数ヵ月かけて翻訳した日本語の原稿の印刷物とそのフロッピーディスク(FD)をやはり宅配便でG社に送っていた。

私が当初使っていたワープロ専用機は東芝の「ルポ(Rupo)」であるが、労働省では富士通の「OASYS」を使っていた。この2つには互換性がないので、Aさんは私が送ったルポのFDを変換屋という業者に持ち込み、OASYS用のFDに変換して労働省に納めていた。

当時はそんな商売もけっこう繁盛していたそうだ。なお、私は1995年にようやくワープロからパソコンに移行した。

日本経済の波乱とAさんの死

しかし、私のこんな順調な翻訳人生の裏では、「失われた10年」というとんでもない事態が急進展していた。1990年の株価大暴落を皮切りに、日本銀行による不動産融資の総量規制、相次ぐ公定歩合の引き上げ、その結果としての1997年の北海道拓殖銀行の破たんと山一證券の自主廃業など、日本には大暴風が吹き荒れていた。

こんな状況下でも、G社からの労働省の翻訳の仕事はまったく途切れることなく、また仕事のボリュームもほとんど変わらなかった。

Aさんがのちに語ってくれたのだが、実は労働省の仕事もジリジリと少なくなっていたが、J通信の記者たちにとってG社の翻訳の仕事はアルバイトであるが、私は専業でやっていたので、私に優先的に仕事を回してくれたとのこと。これを聞いたときは、さすがに胸が熱くなった。

しかし、私にとって順調と思われたこうした労働省の仕事も、1999年10月に突然終了することに。Aさんが酒が原因で急死したとの知らせが入ったからだ。こうしてほぼ10年にわたる労働省の翻訳の仕事も、本当にあっけなく終わったのである。

次回へ続く

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