教科書に小説は必要なのか?

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教科書の小説をめぐる人々の意見

2022年度から高校の国語で「文学」が選択科目になる。その目的は実社会で役立つ国語の能力を向上することにあり、これにより「現代の国語」は必修、その一方で文学作品を扱う「文学国語」は選択科目となる。

2020年2月8日付の朝日新聞には、「教科書に小説は必要ですか?」という特集記事が掲載され、この問題について多くの人がさまざまな意見を述べている。その記事によれば、「教科書に小説は必要ですか?」との問いに「はい」と答えた人はなんと89%に達している。

その理由は、「自分では読まない作品と出会える」「思考力の基礎になる」「日本語表現の文化や伝統を学べる」など。その反対に「いいえ」と答えた人の理由は、「(小説は)趣味の芸術として楽しめばよい」「実用的な文章能力を高めるほうが重要」などである。

「はい」と答えた人の代表的な理由は、「教養として文学は必要。実用表現はあとからノウハウ本で調べれば身につく」(60歳の東京の女性)などであろう。その反対に、「教育現場で国語=文学という考えが染みついていて、実用文が軽視されすぎていた」(59歳の栃木の男性)などは、「いいえ」と考える人の意見を集約しているようだ。

大嫌いだった高校の国語の授業

こうした記事を読むと、ひと昔前に受けた自分自身の高校時代の現代国語の授業がよみがえってくる。その当時の現代国語では小説(散文)どころか、詩・短歌・俳句などのいわゆる韻文(いんぶん)がやけに多かった。私自身は昔も今も詩や短歌などにはまったく興味がなく、そうした現代国語の授業は本当に苦痛だった。

その一方で、当時の大学入試の現代国語では批評家・哲学者の小林秀雄などの文章がよく出され、なにを言っているのかよく分からないその悪文(?)には本当に泣かされた。今思うと、当時の高校や大学入試の現代国語は、「文章は明晰(めいせき)で理解しやすく書く」といういわば当たり前の国語の常識に完全に反している(今の高校の現代国語についてはよく分からない)。

筆者は英日翻訳という一応著述業に就いていたので、どのような文章を書いたらよいのかについては常に意識してきた。そのため、有名作家の文章読本などもけっこう読んだ。しかし、結果的にそうした文章読本はまったく役に立たなかった。

邱永漢氏の本が筆者の文章読本

筆者が最も心ひかれ、懸命にまねたのは、邱永漢(きゅうえいかん)氏の文章だった。台湾生まれのこの人は「香港」という小説で直木賞を受賞した作家であるが、むしろ「お金儲(もう)けの神様」として有名だった。

お金儲けに関する彼の本はかなり読んだが、お金はあまり儲けられなかった。しかし、彼のキビキビとしたユーモラスな文章は私の心を虜(とりこ)にし、「自分も絶対にこうした文章を書くぞ」と心に誓ったものである。筆者にとって邱永漢氏の本が文章読本だった。

数少ないユーモラスな文章を書くチャンス

実際に実務翻訳や出版翻訳をやってみると、こうした文章を貫くことは難しい。というのも、翻訳には必ず原文や原著があり、しかもその内容は経済・金融・株式などに関するものだったので、翻訳した文章はどうしても専門的で堅くなる。へたにユーモラスな文章に翻訳しようものなら、翻訳会社の担当者から誤訳であるとのクレームが来る。

しかし、株式の出版翻訳をしていたとき、「訳者まえがき」でかなり自由な文章が書けたので、翻訳とは違う文章のおもしろさを味わうことができた。もちろんユーモラスで読みやすい文章を心がけたことは言うまでもない。こうした自由な文章を含め、翻訳を含めたどのような文章を書くときでも、「明晰で理解しやすい日本語を書く」といういわば国語の常識ともいうべきスタンスは崩さないように努力した。

J通信社でニュースの翻訳をしていたとき、「新聞の文章は一度しか読んでもらえないので、再読しなければ理解できないような文章は書くな」と上司からよく言われたが、今にして思うと本当に名言である。

次回へ続く

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