ある翻訳者の放浪記

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会社時代の友人の誘い

私が経済・金融・証券などの実務翻訳をスタートさせたのは、1988年である。今思うと、日本の経済がまさに絶頂にあったとき。逆に言うと、日本経済のバブル崩壊がヒタヒタと迫っていたころである。

実務翻訳の仕事を勧めてくれたのは、J通信社の同期の友人だった。彼はアルバイトで東京のM社という翻訳会社の実務翻訳をしていたが、近く特派員としてニューヨークに赴任することになっていたので、その後任を探していたのだ。

その彼がニューヨーク行きが近づいたころ会津に遊びに来て、私にこう言ったのである。「おまえ、J通信の外国経済部で6年間経済翻訳をやっていたんだから、できるだろ」。

それにその仕事、会津の田舎にいても何の問題もなくできるとのこと(今でいうリモートワーク)。そのころは、自宅で英数の学習塾、隣町の予備校で英語講師をしていたが、正直それらの仕事では物足りなくなっていたので、彼の誘いは二つ返事で引き受けた。

専門翻訳者の不足が追い風

ラッキーだったのは、その当時は今のように翻訳者養成スクールもほとんどなく、経済・金融・証券などの専門翻訳者があまりいなかったこと。そうした状況ゆえに、J通信の外経部の記者にはそうした実務翻訳の依頼がかなり来ていたようだ。

それでも実際にやってみると、J通信の外経部でしていた翻訳と実務翻訳はやはりかなり違っていた。J通信時代の翻訳は主にロイター通信から送られてくる経済・金融などのニュースの翻訳で、基本的にはマスメディア向けの記事の翻訳である。

これに対し、実務翻訳は主に企業向けの情報の翻訳で、内容はかなり細かく、また専門・実務的である。それに経済翻訳を6年やってきたとはいえ、最初の数年は記者見習いみたいなものだったので、経済記者としてはまったく半人前だった。

それでも、そうした専門分野の翻訳者不足と経済の絶頂期というラッキーさもあって、仕事はどんどん来た。M社の担当者(女性)の叱咤激励(しったげきれい)もあって(実際には叱咤のほうがはるかに多かったのであるが)、実務翻訳の仕事にも徐々に慣れていった。

翻訳会社の社長のうれしい励まし

そして、上京して赤坂見附のM社を訪問したとき、社長から言われた次のコトバは、実務的な英語力にそれほど自信のなかった私にとってとてもうれしかった。

「盛々男さん、うちにはネイティブのチェッカーもいますが、英日の翻訳はやはり日本人ですよ。英語力が40%、日本語力が60%ですね」

その当時の原稿の送信手段はファックスだけ。まずはM社からうちのファックスに翻訳依頼の英語の原稿が送付され、それをワープロで日本語に翻訳した原稿をファックスでM社に送り、M社ではそれをもう一度パソコンに打ち込むという、今では考えられないような作業をしていた。

バブルの崩壊で仕事が消滅

それでも仕事もたくさんあり、また原稿料もほどほどによく、充実した翻訳生活を送っていた。しかし、まもなくして日本経済のバブルが崩壊したことから、仕事の依頼も徐々に少なくなり、5年後の1992年にはM社からの仕事はほとんどなくなってしまった。

時代の変化に翻弄(ほんろう)されるフリーランス、私はまさにその典型的なケースであった。

次回へ続く

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