めざすは実社会で使える文章力と数字のマネジメント能力

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外国の文学にのめり込んだ大学時代

以前のブログの記事にも書いたように、無知な若者だった筆者は高校を卒業して上京、全国から集まってきたハイレベルな人たちと接して大きなカルチャーショックを受けた。それで大学の専攻は英語だったが、それこそ文学青年といえるほどのペースで小説を読み始めた。

読んだのは日本の小説ではなく、日本語に翻訳されたいわゆる古典と呼ばれる主に19世紀の外国の小説だった。具体的にはフランス文学から始まり、次第にロシア文学にのめり込んでいった。モーパッサン、カミュ、ゴーゴリ、チェーホフ、トルストイ、ドストエフスキーなどなど、いやー懐かしいね。大学3年からは「日本とアジアの近代化」というゼミを選択したので、読書対象はそれらの外国文学から主に日本と中国の思想書に移っていった。

それでは一体、若き日に膨大な時間とエネルギー、それにお金を使って蓄積した外国文学の教養(?)は、その後の人生にどのような影響や効用をもたらしたのだろうか。それはよく分からない。ただ、あれだけの時間を費やして小説を読んだことによって、それ以降にいろいろな分野の本を読む習慣がついたことだけは確かである。

数字に強いことに気づいた経験

一方、大学を卒業してJ通信社に入社し、外国経済部で6年間にわたって学んだ経済や金融の知識、翻訳のスキル、記者としての経験などには、その後の人生で本当に身を助けられた。また、そうした経験を通じて気づいたことのひとつは、自分はけっこう数字に強いなということだった。

ずっと文系だと思ってきた自分の前に経済や金融などの数字が次々と立ちはだかっても、それほどいやになったことはない。文系の高校生だったときに大学入試の邪魔になると思っていた数学が、実はあとでかなり役に立っていたんだと今にして思えてくる。

数字に強いというのは数字の意味するものが分かるということでもあり、こうしたスキルは翻訳のフリーランスや学習塾の経営に伴う毎年の所得税の確定申告、自分で行った相続税の申告などでも大きな力となった。

語学に強いことは楽しいけれど

その一方で、筆者のケースとほとんど反対の人もいた。隣の市の予備校で英語の時間講師として働いていたとき、私よりも少し若い2代目経営者はよく「数字を見ると頭が痛くなる」と言っていた。彼は関西の私立高校に行ったが、数学の代わりにフランス語と英語の授業がメインであり、完全な語学重視のカリキュラムだったという。

彼は高校卒業後に2年ほどフランスの各地をめぐり歩き、フランス語に磨きをかけた。そのかいあって、英語よりもフランス語のほうがレベルが高かった。あるときカナダ人の女性が予備校に来て、2人でペラペラとフランス語で談笑していたときは、本当にうらやましかった。

人生とはいろいろな数字と格闘すること

彼のこうした状況を見ると、たかだか3年間の高校の教育がその人の人生をどれほど大きく左右するのかと驚いてしまう。いろいろな言語にたけているのは本当にすばらしいことではあるが、実社会を生きていくというのはいろいろな数字と格闘することでもある。毎日の生活費をどのようにコントロールするのか、住宅ローンを組んでマイホームを買おうとすれば、毎月の返済額をいくらにまで抑えるべきか、子どもを大学に行かせればいくらかかるのか…。

人生とはお金という数字をどのようにマネジメントしていくのか、その歩みであるといっても過言ではない。自分の人生を振り返っても、数字に強いということがマイナスの結果をもたらしたことはほとんどない。

以上、あまりまとまりのないことを長々と述べてきたが、わたし的に結論を言えば、日本の高等教育は今もって教養主義に凝り固まっているということである。そのように考える私としては、「教科書に小説は必要ですか?」との問いについては、必然的に「いいえ」である。

読書=小説を読むことではない。少なくとも若いときには、実社会で必要とされる「明晰(めいせき)で理解しやすい日本語の文章が書ける」能力をはぐくむ読書でなければ、やはりそれは単なる趣味でしかないと思う。また、教育の価値についても、若いときに受けた教育がその人の人生にどのように役に立っているのかは、ある程度年をとらないと分からないと今にして思う。

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